思い出話々

このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
藤田淑子さんは文藝春秋の編集者です。『ガセネッタとシモネッタ』以来、米原万里の担当者として多くの作品を本にしてくれました。 2017.1.1

◆藤田淑子
米原万里さんの忘れられない言葉 その2
「精神的苦痛にはいくらでも耐えられるけれど、肉体的苦痛には弱いの」


  初めて馬込のご自宅にお邪魔してから三年、『ガセネッタ&シモネッタ』『旅行者の朝食』と二冊の本を刊行し、打ち合わせと称して鎌倉の新居に米原さんにお会いしに行くのが楽しみになっていた。
  春には庭の奥に出てくるタケノコを掘らせてもらったり、本物のガセネッタさん(スペイン語通訳の横田佐知子さん)やシモネッタさん(イタリア語通訳の田丸公美子さん)と下ネッタ連発の会食をしたり……。
  二〇〇三年の秋だったと思う。久しぶりにお目にかかった米原さんは、いつもと様子が違っていた。目の下にはクマが目立ち、いつものオーラがまったく出ていない。「風邪がなかなか治らないの」という。そして、卵巣嚢腫の手術を受けることにしたとも。「入院なさったら教えてくださいね。お見舞いに行きますから」と約束して、その日は帰った。
  一週間ほどして、米原さんから電話があった。入院している横浜の病院に来てほしいと。いそいで会社を出て、病院に向かった。
  ところが、教えられた病室に米原さんがいないのだ。しかたなく廊下の椅子に座って待った。するとしばらくして、廊下の向こうから手すりにすがりながらガウン姿の米原さんが歩いてきた。一歩、一歩、やっとの思いで足を進めているかんじだった。
「米原さん、どうなさったんです? 寝ていなくていいんですか」と聞くと、「母が危篤で、同じフロアに入院しているの。今、身体を拭いてきてあげた」という。ご自身が手術したばかりで歩くのもやっとなのに、何ということだろう。驚くことは、そればかりではなかった。一緒に病室に入ると、米原さんは思いもかけない話を始めた。
「手術で摘出した嚢腫の組織を検査したら、がんであることがわかったの。朝から、パソコンでいろいろ検索して調べているのだけれど、あなたのところで本を出している近藤誠先生を紹介してもらえないかしら」というのだ。私自身は近藤先生に面識はなかったが、担当者を通じて紹介してもらうことにした。
  退院された米原さんと一緒に近藤先生の外来にうかがった。先生は三つの選択肢を挙げた。(1)手術して抗がん剤治療を受ける(2)放射線治療をする(3)何もせずに様子を見る。「がんもどき」であれば、再発はしない。
  病院から出てきたとき、米原さんはぽつりと言った。
「私、精神的な苦痛はいくらでも耐えられるのだけれど、肉体的苦痛には弱いの。拷問されたりしたら、すぐ白状してしまう」
  結局、米原さんは手術を選ばなかった。

    
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