思い出話々

このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
斎藤一さんの母上・輝子さんと万里の母・美智子は女学校の同級生。その二人が戦後しばらくして東京・馬込の商店街の肉屋さんで偶然再会した。プラハでも帰国後の馬込でも、のちに万里が鎌倉に建てた家でも、米原家の壁にはずっと、一さんが子供の時に描いた馬の絵が飾られていた。 2017.12.5

◆斎藤 一
まりちゃんの思い出


  ユリさんから「万里にまつわる思い出をゆかりの方々に書いていただいています」ということで、光栄にも私にご依頼が来ました。まりちゃんとは違い平凡な人生を送ってきた私にはふさわしいことには思われませんでしたが、たぶん私しか書けないこともありそうな気がしてお受けしました。
  思わず「まりちゃん」と書いてしまいましたが、私にはほかの呼び方はできません。会った最初の記憶などはなく、幼稚園前から小学2年までをともに過ごした「幼馴染み」ということだからです。そのようになった理由は、都内の女学校の同級生だった私の母とまりちゃんのお母様が、結婚後に設けた家が大田区馬込の同じ学区内にあったという偶然によります。
  「思い出」を書くことをお受けしたものの、エピソードのようなことは全く書けないことに気づきました。例えば、母たちが子供たちを連れてどこかに一緒に行くことが良くあったようで、大森のガード近くの映画館などが記憶に残っていますが、その映画はフェリーニの「道」だったようであることや、水たまりに浮いた油の作る模様が不思議だったことは頭に残っていても、まりちゃんと何を話したとかそういうことは全く思い出せません。小学校のクラスも同じでしたが、そこでのことも何も思い出せません。残っている記憶はセピア色の写真のように断片的なのですが、その断片集の中で多くの部分を占めているのは米原家のことです。米原家は当時の普通の家とは全く違う洋風の家で、畳の部屋などなかったし、庭も広かったと思います。そこで食べるお菓子なんかも普通とは違うモダンなものでした。遊び道具や本も私の家にはないようなものがあり、行くことは楽しいことであったことは間違いありません。まりちゃんの言ったことの中では、「チズ」という言葉を覚えています。大分あとで「智頭」という鳥取のお父様の実家だったとわかりましたが、きっととても好きな場所だったので、何度も口に出したのでしょう。
  同い年とはいうものの、私は7月生まれでまりちゃんは4月生まれの「年上」であること、さらに軟弱な私に比べて、はっきりとものを言うし、体格や体力も優れていたので、間違いなくまりちゃんは「上位」の存在でありました。ただ、私のことをそれなりに気に入ってもらっていたんだと思うのは、一緒に遊ぶ仲間の中にあまり他の男の子はいなかったように思い出すからです。私自身も男子よりも女子と遊ぶ方が好きだったというタイプだったため、そうした状況は居心地が良かったのですが、時々は集団の中での疎外感も感じていたこともあったことが記憶に残っています。それは、たぶん女子同士で固まって遊ぶという時に、私がそこに入れてもらえなかったということではないかと思うのです。何といっても、まりちゃんは米原家という場においてリーダーでしたし、私はおとなしい随伴者であったのです。

  そうしたまりちゃんの世界が突然消えたのが米原家のチェコ行きです。母に連れられて羽田空港に見送りに行ったときのことは鮮明に覚えています。飛行機は「エールフランス」でした。空港の展望台から飛行機が飛び立つのを見守りました。その後手紙もやりとりもあり、私が趣味としていた切手も送られてきましたが、いつしか文字通り「遠い人」になっていきました。
  その後のまりちゃんとは3回ほどの出会いです。1回目はチェコから戻った中学生の頃、米原家での再会パーティのような場で、突然レコードをかけてツイストのような踊りを始めたことに仰天し、「外人」になって帰ってきたと思い、近づくことはできませんでした。次は30代後半の頃、小学校の同期会というのがあり、その2次会に、誰かが彼女を呼んだらしく荏原町のスナックで会いました。大変派手な洋服を着ていました。そこで、酒に少し酔った時に、コップの酒を私に向かってかけるという行為に及んだのでびっくりしました。たぶん、平凡な人生を送っていた私にいらだったのでしょう。その後の通訳者や作家としての活躍は、母が熱心に集めていた情報で知っていたものの、直接会うことはなく、3度目の再会は50代になってからのお母様のお通夜の時でした。ご遺影の前で目が合ったら、微笑して「ちょっとお話していきましょう」と声をかけられ、通訳者仲間の方々に交じり、かなりゆったりとした話ができました。前回とはうって変わって穏やかで、半世紀ぶりに、「まりちゃん」が戻って来たように思いましたが、それから長い時を経ない間に訃報に接することになってしまいました。申し訳ないことですが、「米原万里」の著書を読みだしたのはその後のことです。
  本日、ユリさんから文芸別冊の「米原万里」が送られて来ましたが、その中の対談で、「万里さんって恋人いなかったの?」と聞かれたのに対し、ユリさんが「いなかったと思います。」と断言していますが、私もそんな気がします。うまく説明できませんが、「幼馴染み」としての直感です。
「旭幼稚園運動会‐品川区立延山小学校校庭にて、昭和30年10月23日、5才の頃」
(後列)左より(万里さん、ユリさんの)お母様、私の母
(前列)左より、万里さん、ユリさん、私の弟(正)、近所のケンちゃん、私

プロフィール

斎藤 一(さいとう はじめ)
1950年東京生まれ。 大田区馬込で育つ。
米原家からは約500メートルであった。
幼稚園から小学2年まで、万里の同級生。
工学部卒業後、メーカーと外資系保険会社に勤務。
現在は退職後の余生を大学院生として過ごしながら、
時々最後の勤務地であった上海を再訪する生活。
 
『思い出話々』とは

米原万里のエッセイ「単数か複数か、それが問題だ」(「ガセネッタとシモネッタ」所収)に由来する。

ロシアからやってくる日本語使いがそろいもそろって「はなしばなし」という奇妙な日本語を口走る。(略)…この日本語もどきの版元が判明した。日本語学の第一人者として名高いモスクワ大学某教授。 「日本語の名詞にはヨーロッパ諸語によくある複数形はない。しかし一部の名詞にはインドネシア語などと同様、反復することによって複数であることを示すルールが適用される。たとえば、花々、山々、はなしばなし……」
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斎藤一 2017.12.5  NEW
「まりちゃんの思い出」


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