思い出話々

このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
集英社の清川桂美さんは、新書『必笑小咄のテクニック』『米原万里の「愛の法則」』の担当編集者です。(財)一ツ橋文芸教育振興会主催の「高校生のための文化講演会」に万里がよばれた際にも同行。その時の思い出話を数回にわたって掲載します。 2016.10.1

◆清川桂美
忘れられない3つの高校講演会
《犬》の四国講演会(3)


あわや、狂犬病!?

《犬》の四国講演会にはパート2があります。
  これは強烈な印象というよりは、もう事件でした!
  2日目の晩に外食したのですが、おいしいとはいえ連日の魚料理に、無性に肉が食べたくなった万里さんはビフテキを頼みました。しかし、ステーキハウスではなく居酒屋風の、魚料理もあれば肉料理もあるというお店だったのでイマイチだったのかもしれません。いつも完食の万里さんがめずらしく食べ残しました。万里さんはそれを野良犬にあげようとアルミ箔に包んでもらいました。そう言えばホテルを出たとき、通りをはさんだ向かいのガソリンスタンドに閉店後、野良犬がうようよたむろしていました。雑種でしょうが、さすが四国・土佐犬の血も混じっているのか、どの犬もスレンダーで精悍な顔つきで、ちょっとコワイ感じがしました。犬好きの私もさすがに近寄りませんでした。
  翌朝、食堂に降りていくと、万里さんは手に包帯を巻いていたので「どうしたんですか?」と尋ねると、「あの野良犬に噛まれたのよ」
  早朝、スタンドに食べ残しのビフテキを持っていくと、下に置く前に食いついてきたそうです。病院にはまだ行っていないとのこと。そしてポツリと「狂犬病が心配だわ」
  もう本当にびっくり! 焦ったなんてものではありませんでした。
  当時、万里さんは2003年10月に卵巣に癌が見つかり、さまざまな治療法を模索中で、弱っている免疫力にとても神経質になっていました。ちょうど「情報水」を大量に飲むことを心がけていて、その水を作るための道具も持参していました。ご指定のミネラルウォーターを行く先々で大量入手するのが、出張中、私の最大のミッションでした。
「救急車ですぐ病院に行きましょう!」と申し上げたのですが、講演があるからと言って承諾しません。結局、午後の講演終了後、新聞社の方の知人と紹介されて大学病院の医師に診てもらい、「今どき狂犬病は、まずないですよ」のひと言に胸をなでおろしました。しかし、あらためてかかりつけの医師に精査してもらうよう指示されました。

  万里さんもさぞ心配なさったことと思います。危うく死ぬところだった、と本気で思ったのでしょう。この時の顛末は、文春文庫の『私の死亡記事』(2004年12月刊行。後に『終生ヒトのオスは飼わず』にも収録)に記されています。
  2000年に刊行された同題単行本の文庫化にあたり、12人の記事が追加されましたが、万里さんも新たな執筆者の一人でした。元気なうちに自分の死亡記事を想像(創造?)して書くのですが、万里さんの場合はリアルな体験に基いていたのです。
  ちなみに、万里さんはこの記事で「享年75」としています。実際に亡くなられたのは56歳。しっかり癌と闘う覚悟だったのですね。あまりにも早すぎる死でした。本当に悔しい。

本当のグローバリゼーション

  最初に講師紹介を済ませると、病院を調べたりあちこちに連絡を取るのにあたふたとして、講演を落ち着いて聴くどころではありませんでした。訪ねる病院が決まってやっと講堂に戻ると、なんと驚いたことに、万里さんは、犬に噛まれて大騒ぎしたことなど微塵も思わせず、自分の心配をするどころか、英語が苦手という生徒たちを励ましていました。
「同時通訳は何があってもパニックになってはいけない。正確でもおどおどした態度で通訳する人より、少々大雑把でも自信をもって話す通訳のほうが、聴衆は安心して聴いている」と耳にしたことがありますが、まさに万里さんはプロフェッショナルと言うべきか、肝が据わっていると言うべきか、堂々と、時に笑顔を交えて講演しているのには感服しました。
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