思い出話々

このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
酒井京子さんは、日本を代表する児童書出版、童心社の編集者で現在は同社会長。万里とは1979年に一緒に旅行して以来親交があった。
2018.1.24

◆酒井京子
万里さんとの青春の日々


  万里さんと知り合ったのは、今から35年以上も前、万里さんが30歳で私が33歳くらいだったと思います。
「ソビエト作家同盟」の招待で、講談社の専務であり名物編集者だった三木章さんと私(当時・童心社の編集者)が、ソビエトを訪問することになり、万里さんが通訳としてご一緒してくれることになったのです。
  事前の打ち合わせもないまま、私たち3人は、新潟空港から、ハバロフスク空港に向かいました。ハバロフスクまでは列車で、それから夜行列車や飛行機を使いモスクワ・レニングラード・キエフという長旅です。
女性2人と中年男性1人ということもあり、私たちは、「お父さんに連れられて旅する姉妹」ということにして、楽しい旅を続けました。
左から、三木章氏、酒井さん、万里


  当時のソビエトの招待は、会議とパーティーの連続だと聞いていました。先輩の助言で、私は、着物一式をトランクに入れてでかけました。しかし、会議もそこそこに、「行きたい所はありますか?どこにでもお連れしますよ。」というアット・ホームな雰囲気で、着物を着る機会はありませんでした。

  私と万里さんはずっと同室でした。
  モスクワのホテルでは、朝起きると、万里さんが食堂に連れて行ってくれました。そこは、宿泊したホテルの立派なレストランではありません。ホテル内にある小さな食堂でした。野菜が美味しく、素朴な料理を自分で取ってきて食べたように思います。特にえんどう豆が美味しかったと記憶しています。
「ここは、どこ? ホテルの従業員の食堂かしら?」
「ここはね、長期旅行者が食べる食堂よ。ここの方が美味しいでしょ。」
確かに美味しい! 私たちは、朝からモリモリ食べました。
そして、旅が終わる頃
「私、あなたのように沢山食べる人、はじめて!」
「私もよ、私たちって、本当に良く食べるわね!」
と、笑い合ったのでした。

  万里さんは、何でも(?)通訳してくれました。
道を歩いていると、
「今、すれちがった夫婦、喧嘩していたわ!
  だからあなたは、だめなのよ! いい加減にしなさい!ですって。」
  私は、時々、自分がロシア語を話せるような錯覚に陥りました。こんな体験は、後にも先にもありません。

  長旅でずっと一緒の部屋。たいてい不愉快なことがおこり、喧嘩になるという話は良く聞きます。でも、万里さんとの旅行では一度もそのようなことはありません。なぜ、あんなに気が合ったのだろうと、万里さんを思い出すたびに考えます。
  私にとっての万里さんは、自然体の人でした。そして、親切で威張らない人・・。ですから、私も自由に話し行動しました。
  これも、モスクワのホテルですが、ある日のこと。
「今日、母が同じホテルに泊まっているの。一緒に母の部屋に行ってみない?」
ということで、初めてお母さんにお目にかかりました。フランス語の得意なお母さんは、国際婦人会議(?)、に出席のため、モスクワに滞在されていたのでした。美しく落ち着いた雰囲気のお母さんに、まあ、万里さんの甘えん坊なこと! ほんの短い時間でしたが、母と娘ならではの会話に、私は日本の母を思い出し羨ましかったのでした。

  ある日の朝、新宿のブティック(今ならこう呼びますが、普通の洋服屋さんです)で、バッタリ万里さんに会ったことがありました。米原昶さんが亡くなったばかりの頃です。お店の中で、万里さんは、まだ幼かった万里さんとユリさんに宛てた米原昶さんからの手紙を見せて下さいました。ボロボロ涙を流しながら、でも可笑しいところは、笑いながら読んでもらったのです。まだ、お客さんはだれもいません。売り物の洋服に囲まれて・・・。

  その後、イタリアへも旅行しました。この時は、万里さんのお友達2人と私の友人が加わり、5人の旅でした。この頃の万里さんは、通訳の仕事でとても多忙だったと思います。
「私、旅をするときは、たいてい20着の洋服はトランクに詰めるの。」
たしかに、万里さんは、毎日、美しく着飾って現れました。そして、どれもこれも、素敵でした。
「万里さん、今日のスーツは深紅で素敵だけれど、でも、昨日着ていたワンピースの方があなたの肌色には、似合うわ」と、私。
そこで、夜、旅先のホテルで、持ってきた洋服のファッションショーをやって遊びました。
  ところが、ローマに着いた翌朝、さあ、これから観光しましょうと、ホテルを出て2~3分歩いた時、
「私、トイレにいきたい!」
と、万里さんと同室の女性が言いだしたのです。
「今、ホテルを出たばかりでしょ。行きたいのなら、1人で行ってらっしゃい!!」
でも、彼女は、右も左もわかりません。険悪な雰囲気です。
「それじゃあ、みんなで、カフェへ行き、トイレを借りない?」
ということになり、5人は、近所のカフェに入りました。そして、おかしなことに、全員トイレを借り、ニコニコしながら観光を続けたのでした。

  万里さんとのお付き合いは10年くらいで、そう長いものではなかったと思います。でも、今もたくさんのことが、シーンとして鮮烈に蘇り、万里さんのあの声が聞こえてくるのです。
  これからどのような人生を選択していくのか? 青春時代はとっくに過ぎていたかもしれないけれど、純粋に悩み考えていた、最後の時期だったと思います。
  だからでしょうか? 万里さんの優しさと孤独が、今も私の心をしめつけるのです。
1992年、イタリア、フィレンツェにて。


    
プロフィール

酒井 京子(さかい きょうこ)
1946年生まれ。
1968年に、絵本・児童書・紙芝居の専門出版社である童心社に入社。『おしいれのぼうけん』『14ひきのシリーズ』などのミリオンセラーの絵本を編集する。
童心社編集長・社長を経て、現在は会長。
紙芝居の普及にも力を注ぎ、「紙芝居文化の会」の代表も務めている。
 
『思い出話々』とは

米原万里のエッセイ「単数か複数か、それが問題だ」(「ガセネッタとシモネッタ」所収)に由来する。

ロシアからやってくる日本語使いがそろいもそろって「はなしばなし」という奇妙な日本語を口走る。(略)…この日本語もどきの版元が判明した。日本語学の第一人者として名高いモスクワ大学某教授。 「日本語の名詞にはヨーロッパ諸語によくある複数形はない。しかし一部の名詞にはインドネシア語などと同様、反復することによって複数であることを示すルールが適用される。たとえば、花々、山々、はなしばなし……」
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