このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
2019.10.24 ◆元編集者 高橋靖典 米原万里さんとの思い出 お仕事で、図らずも万里さんの遺作を担当させていただいた。タイトルは『他諺の空似』。世界のことわざ・箴言を収集、比較し、凝縮された人類の歴史と知恵と文化を万里さん流に縦横無尽に料理していただいた。三年ほどの月刊誌の連載から担当して、刊行が2006年。まさに彼女の人生の正念場の時期でした。南 伸坊さんの装丁で、「万里さんの本なら」とご快諾いただき、とっておきのロシア土産のシーソー人形を使ってのデザインとなった。解説は、訃報のあとの刊行になることを承知で阿刀田 高さんにお引き受けいただき、あたたかく、有難い評価を頂戴した。いまは中公文庫に入っている。 この仕事以前のご縁は、井上ひさしさんが「父と暮せば」のモスクワ公演(2001年6月)に出向いたとき。飛行機嫌いの井上さんを囲んで,皆で行けばこわくない的ツァーが組まれて、参加した。この公演のために万里さんは、「父と暮せば」全編のロシア語訳の作業を引き受け、公演の準備に関わっていた。そしてこの一行のガイド役もやってくれたのだ。仕事で忙殺されているさなかに、である。 こんな贅沢なツァーはなかった。 なにせ旧ソ連のゴルバチョフ書記長やエリツィン大統領のご指名で世に知られたロシア語通訳の第一人者が、観光ガイド役ですからねぇ。移動でモスクワ市内を回っている間も、旧ソ連の歴史と凄みを素人にも腑に落ちるように解説してくれる……中身の濃い―ガイドを堪能しました。 公演初日。劇場(モスクワ・エトセトラ劇場だったかな)に入ると、歌舞伎などで見かける字幕テロップが舞台脇にセットされているのがすぐに目に入った。万里さんの労作、「父と暮せば」ロシア語版全訳がここに刻々写されるわけだ。「父と暮せば」はすこぶるつきの傑作である。それでも字幕頼りの芝居がロシア人にどれだけ伝わるのか……観客に過ぎない小生も少しく緊張を覚えた。 が、公演後、こじんまりした打上げが始まるやいなや、ロシア人のおばちゃんが、スタッフらに、えらく感激した様子でずっと話しかけている。あきらかにホワイトカラーではないと分かるおじちゃんも、めざとくワインとサンドイッチを確保すると、小生に目を向けて滔々と感想を(と思う)しゃべり始めたではないか。スパシーバ(有難う)くらいしか知らない自分はチンプンカンプン、あたふたと応対しつつ、愉快と云えば愉快な経験でした。ロシア人の舞台好きは知っていたけれども、万里さんの訳が、ロシア人にきちんと伝わり、感極まってフツーのおばちゃんやおじちゃんが観劇後に感想を伝えにやってきたのだから大成功……ウスピエーフ!! ところがそんな素晴らしき晩が明けて、なんと小生は万里さんから大変な仕打ちを受けることになります。 モスクワでの私たちの宿泊先は、元ロシア共産党の幹部用ホテルでした。まさに小室直樹が喝破した通り、「ソビエト帝国の崩壊」を実感するのにうってつけの舞台。たしかに部屋は広く、家具やベッドの大きさも重さもみな尋常でなく、無駄な「重厚長大」そのもの。そしてベッドの上やバスルームには謎の呼び出しボタンの跡がいくつも……のまま民間用ホテルに……ペレストロイカという名の凄まじき資本主義化……そんなホテルです。 その旧ソ連共産党幹部専用ホテルのロビーで、万里委員長招集のもと、当時万里さんとともに高名を馳せていたガセネッタ・ドッジ女史や、先輩編集者らたしか四、五人が、丸テーブルで小生を囲みコーヒーを啜り、煙草を燻らしながら詰問するのです。「で、いつどこで?」、「向こうの親にはどうしたの?」と。なんと小生の、査問委員会が開かれたのです……じつは当時、入籍したものの仕事が忙しく新婚旅行に行けずじまいだったのを、このロシア行きとつなげて取ったのですね。そのことを話した途端の、査問委員会と相成ったのでした。ええーー? でありますが、まー好奇心と洒落とネタ取材と冷やかしとからかい尋問(笑)を受けながら、おとなしく容疑者を演じたわけでして、新婚の自分を根掘り葉掘り聞かれただけといえばそれだけの、これまた愉快な思い出ではありますね。大袈裟な物云いですみません。 踊り好き・万里さんの面目躍如だったのが、井上ひさしさんの毎日芸術賞・鶴屋南北賞受賞のお祝いの会のとき。東京ステーションホテルを会場にして企画、設営のお手伝いをしました。祝いの四斗樽や来賓祝辞だけでなく、いまひとつ華がほしいねということで、小生が懇意のマリアッチ歌手、サム・モレーノを呼ぶことにしました。歓談の途中、タイミングを見計らいゴーサイン。フラメンコギターを抱えて派手な衣装で歌いながら登場、大いに会場が湧きました。と、興に乗った万里さんがいち早く、中央で踊り出したのです。即興で軽やかに踊る万里さん、やんやの大喝采でしたがそのうち、お前も踊れーと会場の誰彼となく手招きを始めるではありませんか。 いやーこりゃまいったな、と殿方は思ったはず。こんなとき、すっと一緒に踊れる度胸と社交を身に着けている日本人はまだまだ少ないんですねえ。もちろん小生も含めて。で、結局万里さんの相方をつとめたのが、そのとき会場でいちばん尻込みしそうな、当時の我が上司だったんですね。これにはびっくり。踊りながら、狙い定めてずっと「出てきなさーい」光線を送る万里さんに、とうとう根負け。こーなりゃ自棄だ、とばかりに踊る、踊る、合わせて万里さんがまた踊る、踊る……いやあ、ほんとうに楽しい祝いの会でした。 最後にもうひとつだけ。 万里さんの、たくさんの名セリフのなかでも「食欲は食事のときにやってくる」ほど傑作な言葉はないと思う。我が家の数少ない家訓「口は女王、手はサーバント」も万里さんに教わったこと。口は王様、女王様なのだからけして食べ物に口から近づいてはいけない、料理をのせたはしやスプーンのほうを口に持っていく……グルメでグルマンで知られた万里さんらしい。 そんな万里さんと果たせなかった約束があります。澤口知之という畏友の経営するイタリアンレストランに招待すること。イタリア全20州の郷土料理を覚えてきたと豪語する料理人で、六本木に店を出していた。万里さんなら気に入ってくれるかな、どうかなと思案し口にすると、「あなたが連れていきたいと思うんでしょ」、「はい」、「じゃ、連れていきなさいよ」、「はい」。これで決まり。 しかし数年前、澤口のほうが先に逝ってしまった。巨頭対決がかなわなかったのが心残り、です。でも二人はきっと向こうで逢っているはず。希代の食いしん坊同士だから、絶対に。 だから小生もそのうちに、彼のレストランで食事している万里さんに逢えると思っています。 そのときはどうぞよろしく。食後のダンスも付き合いますから。 Tweet |
プロフィール 高橋靖典(たかはしやすのり) |
日本文藝家協会事務局長。光文社 元学芸書籍編集長。 米原万里 井上ひさしの単行本担当者。日本世間学会会員 |
『思い出話々』とは 米原万里のエッセイ「単数か複数か、それが問題だ」(「ガセネッタとシモネッタ」所収)に由来する。 ロシアからやってくる日本語使いがそろいもそろって「はなしばなし」という奇妙な日本語を口走る。(略)…この日本語もどきの版元が判明した。日本語学の第一人者として名高いモスクワ大学某教授。 「日本語の名詞にはヨーロッパ諸語によくある複数形はない。しかし一部の名詞にはインドネシア語などと同様、反復することによって複数であることを示すルールが適用される。たとえば、花々、山々、はなしばなし……」 |