このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
2017.3.4 ◆鈴木馨 「オリガ」を作ったひと達(1) 片柳 治さん 『オリガ・モリソヴナの反語法』の単行本を作っている時、米原万里さんの鎌倉のご自宅には7、8回お邪魔した。鎌倉は20歳の頃、丹沢や箱根と共によく歩いた場所で、社会人になってからは運動も兼ね、毎週土日のどちらか、北鎌倉から建長寺裏や大仏へ抜ける山道が好きでよく歩いていた。 だから、「オリガ」の打合せがそんなに重くならず、午後の明るいうちに済んだ日など、鎌倉駅への近道は行かずに、銭洗弁天から源氏山を抜け、黒い瓦屋根の寺の様な立原正秋邸を望む明るい照葉樹や落葉樹の山道を歩き、北鎌倉駅へと下りて出たこともある。 大事な打合せの時には、「すばる」編集長の片柳治さんも同行してくれたが、鎌倉在住の作家・画家の方々との打合せで訪れることが多い彼は、この町の地理に詳しく、ある日の帰り道、佐助トンネルから扇ガ谷へ出た時、「ちょっと面白い洋館があるんだよ」と言って、小道へ入って行った。すると目の前に、石組と鉄の門扉から細い私道がゆるやかな斜面を70~80メートルは上がっていき、背後に小高い山を配した古色蒼然たる立派な洋館が現れた。「人は住んでるみたいだけど、謎めいた館で、鎌倉らしいだろ?」。この洋館はその後、人手に渡り、現在はレストランになっている。余談だが。その日、〆切りのシリアスな打合せをした後だっただけに、思いがけない鎌倉観光となったその寄り道は、印象に残った。作家の信頼も厚い、文芸誌の敏腕編集長として知られた彼だが、人を和ませるこんな人柄も作家の方々に好かれたのだろう。 米原さんも彼をとても信頼していた。「すばる」の連載は、当初<言葉に関するエッセイ>として彼が依頼したもので、それに対し、言葉について何編もエッセイを書いていた米原さんは、新しい角度から書こうとして、“罵り言葉”が浮かび、自身が通ったプラハのソビエト大使館付属学校の教師、オリガ・モリソヴナの強烈な罵詈雑言が次々と甦る。オリガのことをエッセイ、ノンフィクションでなく、小説で書こうと思い描いていた米原さんは、それをエイヤッと書いてしまった。小説として成立しているか半信半疑だったが、片柳さんの反応は「連載が終わったら本にしましょう」という予想以上の好反応で、それに勇気づけられ、この初めての小説を、当初の予定の1年を3年まで大幅に延ばす、大作として完成させた。この経緯は、文庫版収録の池澤夏樹さんとの対談に詳述されている通りだ。 連載の第1回が載った「すばる」1998年3月号 その文庫版『オリガ・モリソヴナの反語法』の編集担当だったのは、堀内倫子さんだ。 文庫化の打合せで、堀内さんを連れて鎌倉の米原邸を訪れたのは、2005年の春、新書編集部の担当、清川桂美さんも同行した。この時期、癌と闘いながら仕事にはこれまで同様に打ち込んでおられた米原さんを励まそうと、お喋り上手の女性編集者二人のお蔭で、打ち合わせは和やかに、明るく進んだ。米原さんは、文庫化をとても喜んでおられて、単行本化の時と違い、文章の大幅な直しもなく、装画も単行本と同じ、ロシアの画家、N・V・パルホメンコを使うということで、本文の校正もカバーの装丁も順調に進んだようで、それから半年後の10月20日に無事刊行された。 この日の打合せに、すばる編集長の片柳さんは不在だった。 実はこの時、彼も癌と闘っていた。前年2004年春に食道癌が見つかり、大手術の後、放射線、抗癌剤…体調がいい時には出社しながら治療を続けていた。この文庫の打合せの時も、ご自身も治療中の米原さんは、片柳さんのことをとても心配されていた。 彼の闘病は、パートナーである作家、荻野アンナさんが、看病しながら克明に記録、手術にも実際立ち会って月刊誌に寄稿、又、「すばる」で「蟹と彼と私」というタイトルで同時進行で小説化、連載されていたので、荻野さんとも親交のある米原さんは彼の病状を良く理解されていた。この時期、片柳さんは、会社をずっと休んでいて、GWの頃、だいぶ悪い、という情報が入ってきた。そして5月、逝去された。享年55歳。『蟹と彼と私』は2007年単行本化され、2008年伊藤整文学賞も受賞した。この稀有な才能の編集者は、自らの死をも見事に文学作品化した。 そして、翌2006年5月25日、米原万里さんも鎌倉のご自宅で逝去された。享年56歳。お二人ともあまりに若すぎる死だった。 Tweet |
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