思い出話々

このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
中尾博行さんは東京外語大時代からの、生涯にわたる万里の友人。いつも美味しい和菓子を携えて家に遊びに来てくださっていた。ミラノに赴任中は母も私も大変お世話になった。(井上ユリ)
2019.6.4

◆中尾博行
米原万里さんの思い出(1)


  人の心に強く刻まれる人というのは誰にもあることと思います。私の場合、物凄いスピードで走り去っていった人、短くも太く人生を全うした人、周りの友人知人のみならず、数多くの人の心に、その生きた証を強烈に刻印して、あっという間に我々の目の前から去っていった人。その人の名とは誰あろうか、米原万里さんです。
  彼女が、この世を去ってから十数年になりますが、今でも在世していたら、今日の日本・世界の情勢をどのように喝破していたかと、今の混沌とした時代認識についての謦咳を、歯に衣を着せぬ物言いとともに、聞きたいものだと強く思うこの頃です。忖度という言葉が蔓延している今の世に、権威・権力に媚びず、怯まず、物申していく万里さんがいたらと願望するも、あらためて彼女の不在を深く悲しむものであります。
  米原万里さんとの出会いは東外大二年生か三年生の時だったと記憶しております。今から五十年近く前のことです。大学の大講堂の演壇で、迫力のある演説(アジ?)をぶっているとても眉目秀麗な女子大生がいました。何と言う美女なのか、聞き入る男子学生の衆目の的でした。その人こそ米原万里さんでした。イタリア語を専攻する私には、ロシア語科の米原さんとは、何らの接点がなかったのですが、お互いの共通の友人がフランス語科の水林章君(上智大学名誉教授、フランス近世思想・文学の泰斗、仏政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章)であり、彼から霧が峰(長野県)の野外キャンプに誘われて、その中に憧れの万里さんがいたのです。キャンプ活動のリーダー的存在で、その当時から統率力に秀でていたことは、衆目が認めるところでした。

中尾博行さん撮影。前列が水林さんと万里。

  そのマドンナには淡い憧れの気持ちを密かに抱いていたのですが、あの野太いアルトの声で知りあった当初から最後まで私のことを「中尾君・・・」「中尾君・・・」で呼ばれていましたので、ずっと心の距離を縮めることは出来ませんでした。それも「人のオスは飼わない」万里嬢でしたので、異性としての私などは眼中にはなかったことは当然の成り行きでした。
  学生時代そして東京銀行に就職してからも、暇な時は馬込にある米原邸にはチョクチョク遊びに行ってました。家の二階に続く大きくて広い階段の上りきった先には、当時衆議院議員をされていたお父様の書斎があって、階段の下から見上げても書棚が壁面一杯に峻立していたのを鮮明に記憶しています。書棚にはマルクスの資本論はじめ難解な本がびっしり。万里さんのインテレクチャルな素養は、このような環境で育まれたのだとあらためて思ったものでした。北海道の田舎の高校から進学した私とは、そもそも置かれている文化的・教養的な環境の彼我の違いを否応なしに意識せざるを得ませんでした。
  万里さんは、今で言う帰国子女の走りで、チェコスロバキヤでロシア語を学び、長じてゴルバチョフ・エリツィンらの登場により東西冷戦終結後の国際情勢の著しい変化の中で、ロシア語同時通訳者として華々しい活躍をされていたことは、大勢の方が良く知るところです。その後、著名なエッセイスト・作家として活躍されていくのですが、ネイティブなまでのロシア語を習得した上で、幼少時に本格的な日本語教育を受けていないハンディを物ともせず、彼女の獲得した日本語表現力は、世間一般の帰国子女が容易に身に付けられるものではありません。日本の歴史・社会・文化への深い造詣は、万里さんの並外れた読書量・読書力及び旺盛な好奇心に負うところが大であったのではないかと思われます。
  勿論、持ち前のユーモアのセンスの良さも、きっとチェコの子供時代で磨きを掛けたと思われる「笑い」を取るセンスも効いて、万里さんとの会話はとても楽しいものでした。
  これらのパーソナリティが素地になって、数々のエッセイ・評論・書評・そして小説において大勢の米原万里フアンを獲得して行ったのではないでしょうか。
  米原ファミリーとは、お母様が欧州での国際婦人会議の途次ミラノの私の元を訪ねてくださったり、妹さんのユリさんが、料理研究家となるべく、イタリア料理の勉強に数年滞在されることになった時など「ユリがイタリアに行くので面倒見てよ」と連絡いただいたり、またロシア語通訳協会の忘年会に招かれたり、井上ひさしさんのお芝居に誘われたりしてました。いろいろと交流を重ねていたのですが、そういう万里さんとの長い長い交遊の中で、どういうわけか五年程の音信不通という絶交状態となっている期間がありました。

ロシア語通訳協会の忘年会

(つづく)

    
プロフィール

中尾博行(なかおひろゆき)
1950年北海道生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒。東京銀行、東京三菱銀行に30年勤務。その後、半導体・電子部品商社の役員を経て現在は医療法人の財務責任者を務めている。銀行員時代は二度に渡りイタリアに計10年駐在した。
 
『思い出話々』とは

米原万里のエッセイ「単数か複数か、それが問題だ」(「ガセネッタとシモネッタ」所収)に由来する。

ロシアからやってくる日本語使いがそろいもそろって「はなしばなし」という奇妙な日本語を口走る。(略)…この日本語もどきの版元が判明した。日本語学の第一人者として名高いモスクワ大学某教授。 「日本語の名詞にはヨーロッパ諸語によくある複数形はない。しかし一部の名詞にはインドネシア語などと同様、反復することによって複数であることを示すルールが適用される。たとえば、花々、山々、はなしばなし……」
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