このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
2019.4.15 ◆大沼有子 色鮮やかに 軽やかに うちには、万理ちゃんを思いだす、写真や物がいくつかあります。それを手にして見つめてみると、万理ちゃんの姿が浮かびあがってきます。 これは、プラハのソヴィエト学校にかよっていたころのわたし(たぶん7歳ぐらい)の写真です。学芸会のような企画で、万理ちゃんの振り付けで、さくらの曲に合わせて“日本舞踊もどき”を踊らされました。着物を着て、靴をはいて、帯が落ちそうになりながらも、楽しんで踊りました。♪さくら~♪さくら~♪の所の振り付けは、今でも覚えています。当時、わたしにとっての万理ちゃんは、6歳上の憧れのお姉さん。そのころから、万理ちゃんには、人をその気にさせる力がそなわっていました。わたしも、すっかりその気になって踊ったのでした。そして万理ちゃん自身も、踊ることが子どもの頃から大すきでした。万理ちゃんが学芸会のために自分の衣装を縫っていた姿を思いだします。たしか、上が紺色のタンクトップに淡いすみれ色のチュチュがついていて、タンクトッブの方に青いスパンコールを縫い付けていて、その色合いの美しさに見とれました。(遅筆堂文庫から出ている『米原万理展「ロシア語通訳から作家へ」』の52ページの写真で、万理ちゃんが着ているのがその衣装ではないかと思われる) 万理ちゃんが踊る姿を見られたのは、その後二回あります。わたしが18歳のとき、父の仕事で米原家にあずけられた時期があり、その頃レコードをかけて、ロックのリズムにのって一緒に踊りました。万理ちゃんが民族舞踊のサークルで取り組んでいた、ベリーダンスのような踊りも、エキゾチックに踊って見せてくれました。 これは、わたしの結婚式で、万理ちゃんがキューバ・ルンバを踊ってくれたときの写真です。当日、急に頼んだのですが、万理ちゃんはみんなに手拍子を促し、席の間を移動しながら颯爽と踊ってくれたのです。こんなふうに、わたしにとって、万理ちゃんは“踊る女”なのです。そしてわたしが今でも踊りつづけているのも、踊る快感を万理ちゃんと味わったからかもしれません。 また話がプラハ時代にもどりますが、そのころ学校ではお互いにメッセージを添えて絵をかきあう、思い出アルバム?が流行っていました。その時期、万理ちゃんがわたしの思い出アルバムにかいてくれた絵とメッセージです。 他にも、プラハ時代、うちに来たときスケッチブックにすばらしく美しいお姫さまを描いてくれたのを覚えているのですが、残念ながらそちらの方は見つかりません。でも、万理ちゃんの色の使い方が、とても鮮やかだったのを覚えています。 こちらは18歳のわたしに、万理ちゃんが縫ってくれたアオザイです。たしかキンカ堂に二人で生地をさがしに行き、あっという間にアオザイは縫いあがりました。万理ちゃんは紫と白のアオザイをなびかせ、わたしはこの赤と白の花のアオザイをなびかせ、町を闊歩したのも、さわやかなひと時でした。万理ちゃんには、絵を描いたり縫ったり踊ったり、自分のイメージを形にできる力が、子どもの頃からそなわっていました。そういう力がどうやってついたのか、大いに知りたいところです。 こんなふうに、万理ちゃんの思い出は、エネルギーと色彩にあふれています。きっと、万理ちゃんはそのエネルギーを、文章を書くことに結実させ、そのことに労を惜しまなかったのだと思います。 Tweet |
プロフィール 大沼有子(おおぬまゆうこ) |
1956年に東京で生まれる。 5歳から10歳までプラハで過ごし、万理さんとは在プラハ・ソヴィエト学校同窓生。 小学校教員を経て、今はチェコの子どもの本を翻訳している。 訳書に『ベルンカとやしの実じいさん』(福音館)がある。 |
『思い出話々』とは 米原万里のエッセイ「単数か複数か、それが問題だ」(「ガセネッタとシモネッタ」所収)に由来する。 ロシアからやってくる日本語使いがそろいもそろって「はなしばなし」という奇妙な日本語を口走る。(略)…この日本語もどきの版元が判明した。日本語学の第一人者として名高いモスクワ大学某教授。 「日本語の名詞にはヨーロッパ諸語によくある複数形はない。しかし一部の名詞にはインドネシア語などと同様、反復することによって複数であることを示すルールが適用される。たとえば、花々、山々、はなしばなし……」 |